「片手の添え立ち」「屈張の法則」「ある精神状態」(07/26のツイートまとめ)
最近の発見を、個人的記録も兼ねていくつか書いておきます。
かなり色々あるのですが、許された時間の範囲で手短に記してみます。
甲野先生の介護技術で「添え立ち」というものがあります。
地面に直接座っている人を立たせる技術です。
先々週の木曜(7/11)、これを片手で行う方法を発見しました。
もはや介護とはあまり関係ない気もしますが、体の使い方のデモンストレーションとして、見た目もなかなかに面白いようです。
これを行う上で最大のポイントは、「真横から行う事」です。
通常の添え立ちは真後ろから体を密着させ、二人同時に立ち上がる形で行いますが、「片手版」は真横に回り込んだ位置から開始します。
また、今月の頭ごろ、甲野先生の「手の内」に共通するある法則を見つけました。
「虎拉ぎ」「鷹取り」「火焔」など、この数年、ブームのように先生は様々な手の形を開発されています。
その中のほとんどにおいて、上手くできている人にふくまれ、失敗してしまっている人に抜けてしまっている要素がある事に気づきました。
それは、「曲げながらつっぱっている」という要素です。
指が弧をえがくようにカーブをしつつ、外側に向けてぴんと張りを保っているということです。
この共通要素を、「屈張の法則(くっちょうのほうそく)」と呼ぶことにします。
たとえば、「虎拉ぎ」でうまく行かない人の多くは、見た目の形だけを再現できても、この「張り」の要素が抜けている場合が非常に多いのです。
この「屈張の法則」を把握しておけば、その時の状況に応じた自分なりの「手の形」を創作することが可能になります。
また、柔術(柔道)系の発見もありました。
私が講師をつとめる場などで、師匠である中島章夫先生から受け継いだ、とても重要視している稽古の原則があります。
それは、「手をうごかす時は体をうごかさず、体をうごかすときは手をうごかさない」という原則です。
これは、内部の原理が流通すると、あまり気にせずとも技は成立してくるので、自分の中では「稽古用の原則」という位置づけでした。
しかし、この原則を実戦的な場面における柔術系の投げ技に用いると、とても有効に働くことを確認しました。
このあたりは、次回の「術研」でくわしく解説してみようかなと思います。
最後はとても分かりづらいのですが、個人的記録として書いておきます。
自分の最新の発見は、「武術と相対性理論はとてもよく似ている」という事です。
甲野先生は若い頃、光における「粒子と波の同時性」から、人生における大きな発見をしましたが、これも何かのご縁かもしれません。
私の把握する相対性理論の概要は、おおまかに「光の速度が絶対としてあり、それに合わせるように時間や空間も歪む」というものです。
余談ですが、古人は神をしばしば光に例えてきましたが、たしかに光はこの世の法則において神のごとく振る舞っているので、これを知ったときその整合性に関心した記憶があります。
私が最近確認したのは、武術において「「ある理想的かつ絶対的な精神状態」というものが存在し、それに従うように動きや体の在り方が決定づけられる」という事です。
言い換えれば、究極、「状況や相手に合わせて精神や動きを対応させるのではない」ということです。
そして、少なくともある領域の精神状態に入った時、必然的に力は抜かざるを得ず、それどころか「身体能力を放棄」せざるを得ないということです。
個人的にこれがある品質で体現できたとき、実戦的な稽古の中で、自分が有する最大限の身体性能や、磨いてきた反射神経を超えます。
それは、私の武術における最大の課題である、「価値観の反転」にも、密接につながるものです。
かなり色々あるのですが、許された時間の範囲で手短に記してみます。
甲野先生の介護技術で「添え立ち」というものがあります。
地面に直接座っている人を立たせる技術です。
先々週の木曜(7/11)、これを片手で行う方法を発見しました。
もはや介護とはあまり関係ない気もしますが、体の使い方のデモンストレーションとして、見た目もなかなかに面白いようです。
これを行う上で最大のポイントは、「真横から行う事」です。
通常の添え立ちは真後ろから体を密着させ、二人同時に立ち上がる形で行いますが、「片手版」は真横に回り込んだ位置から開始します。
また、今月の頭ごろ、甲野先生の「手の内」に共通するある法則を見つけました。
「虎拉ぎ」「鷹取り」「火焔」など、この数年、ブームのように先生は様々な手の形を開発されています。
その中のほとんどにおいて、上手くできている人にふくまれ、失敗してしまっている人に抜けてしまっている要素がある事に気づきました。
それは、「曲げながらつっぱっている」という要素です。
指が弧をえがくようにカーブをしつつ、外側に向けてぴんと張りを保っているということです。
この共通要素を、「屈張の法則(くっちょうのほうそく)」と呼ぶことにします。
たとえば、「虎拉ぎ」でうまく行かない人の多くは、見た目の形だけを再現できても、この「張り」の要素が抜けている場合が非常に多いのです。
この「屈張の法則」を把握しておけば、その時の状況に応じた自分なりの「手の形」を創作することが可能になります。
また、柔術(柔道)系の発見もありました。
私が講師をつとめる場などで、師匠である中島章夫先生から受け継いだ、とても重要視している稽古の原則があります。
それは、「手をうごかす時は体をうごかさず、体をうごかすときは手をうごかさない」という原則です。
これは、内部の原理が流通すると、あまり気にせずとも技は成立してくるので、自分の中では「稽古用の原則」という位置づけでした。
しかし、この原則を実戦的な場面における柔術系の投げ技に用いると、とても有効に働くことを確認しました。
このあたりは、次回の「術研」でくわしく解説してみようかなと思います。
最後はとても分かりづらいのですが、個人的記録として書いておきます。
自分の最新の発見は、「武術と相対性理論はとてもよく似ている」という事です。
甲野先生は若い頃、光における「粒子と波の同時性」から、人生における大きな発見をしましたが、これも何かのご縁かもしれません。
私の把握する相対性理論の概要は、おおまかに「光の速度が絶対としてあり、それに合わせるように時間や空間も歪む」というものです。
余談ですが、古人は神をしばしば光に例えてきましたが、たしかに光はこの世の法則において神のごとく振る舞っているので、これを知ったときその整合性に関心した記憶があります。
私が最近確認したのは、武術において「「ある理想的かつ絶対的な精神状態」というものが存在し、それに従うように動きや体の在り方が決定づけられる」という事です。
言い換えれば、究極、「状況や相手に合わせて精神や動きを対応させるのではない」ということです。
そして、少なくともある領域の精神状態に入った時、必然的に力は抜かざるを得ず、それどころか「身体能力を放棄」せざるを得ないということです。
個人的にこれがある品質で体現できたとき、実戦的な稽古の中で、自分が有する最大限の身体性能や、磨いてきた反射神経を超えます。
それは、私の武術における最大の課題である、「価値観の反転」にも、密接につながるものです。
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